研究室訪問

 市川先生は大阪大学基礎工学部物性物理工学科を卒業後,日本板硝子(株)に勤務し,スコットランドのヘリオット・ワット大学物理学科で MSc in Optoelectronic and Laser Devices,および PhD を取得後,ヘリオット・ワット大学,(株)関西新技術研究所での勤務を経て,平成7年4月に,愛媛大学工学部電気電子工学科に着任されました.

まず研究テーマについて簡単におきかせください.

 一言で言えば,“回折光学素子”に関する研究です.光の波が障害物の背後に回り込むと言う,回折現象を利用することで,素子に入って来る光を様々に制御することが出来ます.レンズのような結像作用もあれば,一本の光線を何本にも分けることも出来ます.このような回折光学素子の設計や解析,評価,作製技術の支援などを,数値計算を中心に行っています.

回折光学素子というのはレンズとは違うものなのですか.

 みなさんが良くご存知のレンズは眼鏡やルーペだと思います.カメラや望遠鏡に入っているのは,何枚ものレンズを複雑に組み合わせたものです.また,私達の目にもレンズが入っています.こう言った昔からあるレンズのほとんどすべては,空気などとレンズの材料の境界面での光の屈折作用によって像を作ります.これに対して,回折型のレンズでは屈折ではなくて波の回折によって物体の像を作るわけです.回折光学素子でレンズのような結像作用も実現することが出来ます.

 今,私が主に取り組んでいるのは,このような回折光学素子の中でも,その素子構造の大きさが光の波長程度と言う非常に小さなものです.このような微細な光学素子にとっては,光はまさに電磁波として振る舞いますので,現象が非常に複雑になります.また,今はやりの“ナノの世界”と隣り合わせの部分もあり,おもしろい事に沢山出会う機会があります.

“おもしろい事”というのを少し説明していただけませんか.

 ちょっと専門用語が続いて難しくなりますが,電子ではなくて光に対して結晶のように振る舞うフォトニック結晶も原理的には回折光学素子と同様ですし,光の波長よりもずっと小さな領域で光を制御する近接場光学,あるいは,金属の微細周期構造によって誘起される表面プラズモン共鳴,さらに光からもっと周波数の低いマイクロ波の領域にまで目を広げれば屈折率が負の値を持つ物質など,単に光がどう伝わるかだけではなく,光と物質の相互作用の問題にも踏み込んで行くことになります.

回折光学素子というのはどのようなところで使われているんですか?

 原理的に言えば,今,世の中にある全てのレンズやプリズムを回折光学素子で置き替える事も可能です.まあ,現実にはそれはないと思いますが(笑).
 実際の商品としては,まず,すべての光ディスクピックアップ装置に入っていると言って良いと思います.また,4年前(01年)にはあるカメラメーカーが回折光学素子を使用した一眼レフカメラの望遠レンズを新聞1面を使って広告していたことがありました.最近では,愛・地球博で某電機メーカーが出展している幅50mの大型ディスプレーに使用されていることが知られています.光を使うところであればどこでも応用できますから,ひょっとすると,皆さんの中には,回折光学素子の入った携帯電話を使っている人もいるかも分かりませんよ.

光学素子の設計の魅力はどんなところにあるんですか?

 実は,光学素子の分野では,理論計算の精度と信頼性が非常に高いのです.実験で測定した結果が設計通りでなかったならば,それは作り方が悪い,と言い切る人さえいます.ですから,たんなる机上の計算であっても,机上の空論ではなく,(光の伝搬と言う)現実の物理現象を正確に再現することが出来るのです.また,レンズと言うものは紀元前8世紀頃にはすでに存在していたことが知られていますが,現在でも光を制御する素子としてまだ使われています.技術開発のスピードの急速な先端技術に関わる分野では,このような寿命の長い素子は他にはありません.
 必ずしも最終的な装置や商品の人目につくところにあるわけではないので,素人受けする派手さはありませんが,これなくしては立ち行かない先端技術も多く,最近のノーベル賞授賞研究にも光に関係するものが少なくありません.また,私はその昔,内視鏡の光学素子に関わったこともありますが,今や光学技術抜きでは何も出来ないような医学分野もあります.このように,社会の基盤から最先端の科学の分野に至るまで,どこででも貢献できる場があるというのは光学屋冥利につきます.その一方,通勤電車の中などで,光学素子の使われている電気製品を持っている人達を眺めながら,“みんな知らんやろな.へへへ・・・.”とひそかにほくそえむ楽しみもあります(笑).

ところで,光学を学び研究されるようになったきっかけは何ですか?

 私は,工学系の学部にありながら理学部物理学科の中の物性分野だけを抜き出したような,かなり特殊な学科の出身です.固体物理学,量子力学,統計熱力学,半導体,誘電体,磁性体,金属と言ったものばかり4年間勉強していました.学部を卒業して入ったガラスメーカーではやはり材料に関する仕事をしたかったのです.ところが,私が配属されたのは光ファイバー関連の技術や部品を開発する部署でした.その当時はやっと光ファイバーが世に出始めた頃で,商用で使用されているシステムや製品は皆無に近く,光ファイバーについての知識のある技術者も非常に少ない時代でした.そのためもあって,仕事の半分以上は営業マンのようなもので,大小色々な業種の会社を回って,光ファイバーの宣伝をして歩きました.それが光との最初の出会いで,その後,社内の研究所に移ってから光ディスク装置用レンズの設計を担当するようになりました.ちょうど,コンパクトディスクプレーヤーが世に出る頃で,ある意味で,時代の最先端にいるかのような気持ちを味わうことも出来ました.そのあたりから本格的に光学の世界に入って行ったわけです.

 ところで,私達の年代の人間は,カリキュラムの関係で,小学校から大学まで,学校と名がつくところで光学の授業をほとんどうけていないのです.とにかく,私の場合は,会社に入って仕事についたときには,光学の知識はまったくありませんでした.そのため,事情を知らない管理職からは,“子供でも知っていることを知らない無能社員”と罵られたこともあります.そう言いながら部下や後輩社員を教育できる人材は社内にはいませんでしたので,結局,必要な光学の知識はすべて本を読んで独学で身に付けるよりほかにありませんでした.

イギリスにかなり長い間留学していらしたそうですが,そのときのお話をおきかせください.

 最初の会社に勤めていた際に,社内留学の制度でイギリスの大学に行かせて貰いました.2年間の約束だったのですが,もっと勉強したいとの思いが募り,最終的には会社を辞めてそのままイギリスに残りました.イギリスに渡る機会を作ってくれた当時の勤務先には感謝していますし,結果的に期待を裏切ることになってしまって申し分けないことをしたと思っています.
 会社からの留学だったのですが,社内で私一人だけが,会社のコネなどではなく,留学先を見つけるところから正規の学生として入学するまでのすべての手続きを自分で調べて行うように言い渡されました.会社としては,当然,アメリカを想定していたと思いますが,これ幸いと,自分で勝手にイギリスに行くように話を作って持って行きました(笑).行き先は,スコットランドの首都エジンバラにある,高い技術力と産学連携に定評のあった理工系の大学です.1年目は大学院の修士課程で,2年目が研究生,3~4年目が博士課程の学生,5年目が失業者とパートタイム研究員,6年目がフルタイムの研究員,と言うように,ありとあらゆる立場を経験しました.おまけに,最後には,イギリスの入国管理当局から不法入国者と誤認されて,“すみやかに出国しなければ,強制国外退去か刑務所行き”との文書まで貰いました.おかげで,妻子を抱えて,警察官の訪問に怯える日々も送りました.最終的にはいろいろな人のお力で,無事,問題解決に至りましたが,その渦中にあったときには権力と言うものの恐ろしい一面に身の毛がよだつ思いがしました.現地で周囲を見渡しても,一度にこれだけの経験をした人もめったにいませんでしたので,留学コンサルタントでも出来るかもわからないと思ったものです.

社会人から学生に戻ったことについて,いかがでしたか.

 私がイギリスに渡ったのはちょうど30歳の時ですから,一緒に机を並べて勉強していたイギリス人の学生とは6~10歳位,年齢が離れていました.しかも当時のイギリスでは大学進学率も今ほど高くない時代だったので,大学生と言うのはそれなりに選ばれた人間だったわけです.それで,はじめは彼らについて行けるかどうか不安もありましたが,折角の機会ですから,自分の年齢は忘れることにしました.頭の中の記憶容量以外は,若い学生たちと対等にわたり合えたと思っています.勉強以外でも,昼休みなどには一緒になってよくフットボールやバスケットボールも(対等以上に)しましたし,週末などにはパブやディスコに行ったりもしました.
 イギリスにいた6年間は本当に良く勉強をしました.しかも勉強していてとても楽しかったです.(注:勉強は楽しかったですが,現地での生活すべてが楽しく良い思い出だったわけでは決してありません.)しかし,日本を出る際には,“市川は気が狂った”と言われるような人間になって帰って来ようとひそかに決心したのですが,結局,そこまでの人間にはなれませんでした.色々な国から大学にやって来た多くの人達を見て最終的に納得したのは,“人種・国籍・性別による差よりも個人差の方がはるかに大きい”,および“風俗・習慣・国民性の違いはあるものの,人づき合いの基本はどこでも同じ”と言う点です.

留学を希望する学生さんたちへのアドバイスをお願いします.

 まずここで言う“留学”とは,“外国の大学で正規の課程の学生になって,何らかの学位取得を目指すこと”に限定させて下さい.一番大事なものは自分が勉強したい分野の能力で,二番目が慣れない環境に入って苦労してでも勉強したいと言う意欲でしょう.しかし,日本で生まれ育った私達にとって,まず最初に必要なものは語学力です.イギリスで言えば,英語しか話せない人間の中に入って学生をすると言うのは大変なことです.英語の勉強に行くわけではないのですから,現地に何年住んでいようと,英語に対する慣れは出来てきても,基本的な英語の能力が向上するとは思えません.ですから,日本を出るまでに,日本ではもうこれ以上無理だ,と感じるほど自分の英語の力をつけておく必要があるでしょう.

語学力をつける何か秘訣でもありませんか.

 私が是非,強調しておきたいのは,中学や高校の普段の英語の授業の重要性です.文法重視の学校英語,その極限としての大学受験英語は,役に立たないものの代名詞のごとく非難され,会話重視の“使える英語”へ,との運動が昔から合いも変わらず叫ばれています.しかし,私はこれは英語ビジネスに携わる人達の陰謀に過ぎないと言いたいです.まるでおもしろくない(かもしれない)受験英語も出来ない人間に,現地で通用する英会話など到底不可能ですよ.観光客になって街で買物だけしていれば良いわけではないのですから,なまじ英語慣れして,雰囲気だけのブロークン・イングリッシュで会話したつもりになっていては,学位取得につながるべき英語は身に付きません.文法とは芸や技能の世界の基本に当ると理解してもらえば良く分かると思います.私も日本とイギリスで英語の勉強をしましたが,会話が出来なくても筆記試験の点数の高い人ほど,いざ会話の勉強を始めるや,上達がものすごく早いと感じました.
 なお,ここで,注意が必要なのは,イギリスのIELTSやアメリカのTOEFLなどの結果です.これらはいずれも外国人留学生のための試験であって,そこでいかに高得点をとっても,所詮,英語しか話せない人達の英語とは比較にならないと言うことです.

 もう一つ,異文化に対する対応も重要です.留学しようと思うくらいの人には,拒絶反応は少ないと思いますが,自分にとっての“異”を受け止める心と力が必要です.それに対してはじめから迎合したり拒絶するのではなく,まず自分の中に受け入れて,そして自分で考えて対処する能力です.これはやはり年齢と共に難しくなるようですので,その意味では,出来るだけ若いうちに留学できればそれにこしたことはないと思います.ところが,その点,大学出たての日本人の場合には,前述の語学力の問題があるので,どうでしょうか.それと,私が留学した頃は,日本人の学生は同じ年齢のヨーロッパの学生に比べると,外見ではなく,社会的・精神的な部分が幼いような印象も受けました.ただし,現在の状況については私には何も判断できません.私の年齢からすると,日欧の学生の(精神年齢の)差はもう誤差範囲になってしまいましたから(笑).

最後にこれから大学に進学する高校生のみなさんにアドバイスをお願いします.

 学校で授業を受けながら,“なんで,こんなことを勉強せなあかんのや”との不満や,“入試に出るから仕方がない”とのストレスを抱いている人も多いと思います.しかし,実は,皆さんが今,学校の授業でしている勉強はすべて大学に入ってから必要なものなのです.

具体的に言うと・・・?

 理工系を目指す場合『数学』と『理科』は論外として,一番大切な科目はもちろん『国語』でしょう.私達は日本語を通じて,人間として育ち,他人との意志の疎通や情報の伝達をはかりながら暮らしています.したがって,日本語の能力に問題があると,論理的にものごとを考え,文字に表し,人に話すことが出来なくなります.さらに外国語の修得能力も国語力に比例していると思います.私は大学に勤めるようになってちょうど10年経ちましたが,残念ながら,年々,日本語に問題のある学生が増えているように思えてなりません.これは,単に,今どきの若者言葉云々と言った単純な話ではなく,論理的な能力の減退と言うもっと恐ろしい現象ではないでしょうか.結果として,物理や数学といった以前に,教科書の日本語の説明が正しく理解出来なくなっている気がします.
 先ほど英語の話をしましたが,理工系の学部でも『英語』は必要です.いえ,むしろ人文・社会系よりも理工系の方が,国際レベルでの情報のやり取りはずっと多いはずです.4年生で卒業研究を始めると,英語で書かれた文献を沢山読むことになります.それ以前の低学年でも授業によっては英語の教科書や資料を使うことも少なくありません.これは日本語と同じように英語の文章を読んで理解しろと言うことです.
 地理・歴史・公民・倫理など『社会』は大学の理工系の授業の中では直接,成績に影響することは少ないですが,それらの知識と理解がなければ社会人として仕事が出来ませんし,それ以前にまず就職試験に通りません.就職活動の間際になって,あわてて“就活本”を開いたところで最早手遅れです.それらは長い年月をかけて蓄積し熟成すべき社会人としての教養であり,高校の『社会』はその基盤を作る場なのです.

なるほど.そう考えると,勉強する元気が出て来そうですね.

 そう期待したいです(笑).しかし,高校生のみなさんにとって,今,手を抜ける授業はないことはたしかです.大変だと思いますが,上級の学校への進学を目指すと言うことはそう言うことなのです.
 大学とは学問を教えるところではありません.勉強の仕方を教えるところなのです.たかが4年間で学べる知識などごく僅かです.私達が生きて行く上で必要な直接的な知識を学ぼうとすると,一生かかっても時間が足りませんよ.社会が大学を卒業した人間に求めるものは何でしょうか.それは,個別の知識や技術ではなくて,“将来何らかの(特に,未知の)問題が生じた際にそれに対処する能力”,さらに一歩進んで,“自分で問題を見つける能力”だと私は思っています.だからこそ,高卒よりも大卒の初任給が高いのです.だからこそ,同じ学校は言え,大学での教育のあり方は高校までとはまったく異なっているのです.

 最後に入試について.合格の知らせを聞いて,達成感を感じた人,これまでの努力が報われたと感じた人には,大学ではあまり明るい未来はないでしょう.合格して入学することが決まったら,入試の点数や成績を含めて,それまでのことは振り返らず,入学してから先のことだけを考えて下さい.あっ,もちろん,それまでに勉強してきた内容は忘れないで下さいね.念のため(笑).